しらたかノラの会


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私たちの紹介

みんな集合

しらたかノラの会



私たち、しらたかノラの会は、20〜60歳代の男女11人のグループとして、2006年7月にスタートしました。
当時、そのうち6人が白鷹町の出身。“農家の長男”として生まれた生粋の百姓もいれば、
Uターン就農した者もいます。残りの5人は県外からのIターン組です。
福島県や東京都、静岡県、一番遠くは宮崎県から来ました。様々な顔ぶれがそろっています。
ぜひ一人ひとりのプロフィールをご覧下さい。
(集合写真、主な紹介内容は設立当時のものです。 その後独立したメンバー、他界したメンバーについてもその旨明記した上で、 記録としてそのまま掲載してあります)






それぞれのこと

大内

1956年福島県生まれ。
第二次オイルショックの只中、公務員の内定通知はもらったものの採用されず、私企業に就職したが肌が合わず一年で退社。旅とバイトで暮らすが、自分の考えの甘さに気づき挫折。自然の中で働く農に興味を抱き、全国愛農会の愛農大学講座を受講。その後、各地の有機農家での研修や、愛農会本部勤務などを経て、愛農会からインドのアラハバードへ派遣され、有機農業を実践。2年後、肝炎を土産に帰国。伊豆健康センターで断食をして、同センターの野菜を有機・無農薬で栽培する仕事に就く。89年、都内の新規就農ガイドセンターで白鷹町を知り、妻の承諾を得ずに移住を決定。一年目は田植えシーズンに間に合わず、ソバを蒔きソバクレープを主食として過ごした。


菅原

1955年白鷹町生まれ。
農業高校を卒業する際、父親から農業はするな!と言われ反発。卒業後、わずかな耕地で営農開始。冬は出稼ぎなどで収入を得ながら、徐々に農業一本で生活する基盤を作る。20代半ば、加藤秀一の誘いで「置賜百姓交流会」に参加。29歳の時、タイの農薬使用状況調査のため、現地の農村に4ヶ月間滞在。その後、山下惣一氏らとタイを再訪。以来、アジア農民交流センター(AFEC)や国際ボランティアセンター山形(IVY)の活動でタイとカンボジアへ行き、現地の農民との交流や農業支援を重ねる。現地の力自慢と腕相撲勝負で連戦連勝し、相手から拳銃を贈られるも、さすがに固辞した逸話を持つ。

佐藤

1981年宮崎県生まれ。
両親が共働きで小さい時から自分で料理を作り、いつの間にか料理好きに。2000年に駒澤大学仏教学部に入学。学生時代は、都内のオーガニックレストランや自然食品店などを食べ歩くのが趣味。在学中に有機農業の先駆的存在の故・大平博四氏に出会い、卒業後、大平農園の研修生となり、有機農業の基礎を学ぶ。05年10月に山形県長井市にIターン。07年に同じIターン者の井口麻と結婚し、長男・大吉君を授かる。縁あって長井市伊佐沢の自家栽培、自家製粉の手打ちそば屋「蔵高宿(ぞうこうじゅく)」の2代目店主として店を切り盛りする一方、黒米や様々な豆類、カボチャなどを栽培。食と農の理想を追求し、新規就農を目指す。大嫌煙家。2011年に独立。


山本

1972年東京都生まれ。
白鷹町は実母の出身地。95年4月からNPO法人「地球緑化センター」(GEC)の「緑のふるさと協力隊」事業に参加して、群馬県上野村に一年間、滞在。人工林の除伐や下草刈り、手作り味噌の仕込みなどを体験。自然と折り合いをつけながら暮らす人たちのたくましさに強く惹かれる。96年の初夏から半年間、当時加藤秀一が代表を務めていた加工所で研修。その後、帰京して会社員生活を続ける。2000年に山本典子(旧姓・音高)と結婚。長年、踏ん切りがつかなかったが、05年秋に白鷹へIターン。祖父や叔父が作ってきた田んぼを引き継げたことが幸せ。



小関

1957年白鷹町生まれ。
会社勤めで体調を崩し退社。リハビリも兼ねて、有機・無農薬の畑作を始める。化学肥料と農薬を使うのが当たり前だった父親の猛反発を受けながらも、コツコツと経験を積み重ねる。2000年に父親が脳梗塞で倒れてからは、稲作もスタート。品種は「ひとめぼれ」に一目惚れ。トラクターを扱い、重量野菜を運び、田んぼは手除草。新車購入の際、「エアコンはいらない」と車屋さんを困らせたり、ハンドルが抗菌仕様なのを嫌がり、抗菌仕様ではないハンドルカバーをわざわざ取り付ける、「こだわり」屋さん。父親、兄、猫2匹と暮らす。



美恵

1947年白鷹生まれ。
67年から無認可保育所に勤務。その後、「保育所を町立に! 保母を町職員に!」と保護者と一緒に要求して、実現。71年に加藤秀一と結婚。子宝に恵まれ、5人の母親に。79年の次女出産を機に町職員を辞め、母親兼百姓見習いになる。百姓修行とともに、「石けんを広める会」や「婦人問題研究会」などにも、子供を背負って参加する。当初、生活の柱としていた養蚕の価格が低迷を続けたこともあり、少しずつ野菜や加工品の製造、産直に向かう。様々な修行を重ね、今ではすっかり百姓に。ちょうど60歳の年にしらたかノラの会が誕生。保育士、母親兼百姓見習いの時代、そして今。3度目の転機を迎え、新たな人生をまい進中。


樋口

1956年白鷹町生まれ。
70年代を都内の女子大で過ごす。卒業後もアルバイトをしながら、複数の大学で(もぐりの)聴講生を続ける。その後、白鷹に戻り、自宅で学習塾をしながら、公立学校の非常勤講師などで生計を立てる。水墨画を学び、白鷹の自然を描いたり、山歩きをしたり、と白鷹の自然を満喫。母親が亡くなったのをきっかけに、10年ほど前から亡母の畑を引き継ぎ、自給野菜作りを始める。今では、数々のハーブやベリーなど、ちょっと他の人では気が付かない作物を育て、ケーキやお菓子などを作り、ノラの会の商品ラインアップを華やかにする。どうしても捨て猫を拾ってしまう。





疋田

1956年静岡県生まれ。
生家はしらす加工を主とする水産加工業者。20代〜30代に草の根の国際連帯をめざすNGO「アジア太平洋資料センター」(PARC)の専従スタッフとして活動。89年にPARCが呼びかけた国際イベント「ピープルズ・プラン21世紀」の国際農民会議を担当し、置賜百姓交流会の面々と出会う。91年に同会メンバーの菅原庄市と結婚し、白鷹に。90年代半ばより野菜の無農薬栽培をはじめ、産直グループに参加。05年、女性4人で野菜産直・仕出・菓子づくりを行なう「ノラの会」を発足。08年よりアジアの農民交流を推進する「APLA/あぷら」共同代表。常に頭と身体、口を動かす。東北人気質の白鷹町では、自分より喋る人をあまり見かけない。


新野

1954年白鷹町生まれ。
74年から首都圏で会社勤め。81年に生きがいとなる仕事がしたくて白鷹にUターン。置賜百姓交流会の一員としてフィリピンで現地の農民と交流したり、農薬や環境問題の勉強を重ね、有機農業の道へ。86年2月に、水田への農薬空中散布の中止を求めて作られた、「白鷹町空中散布に反対する会」に参加。同年3月に、町内で着工される大規模林道の建設に反対し、「葉山の自然を守る会」を結成し、98年に白鷹工区の完全中止を実現。88年、有機・無農薬野菜の宅配を仲間とともにスタートし、現在にいたる。山形県女子マラソンの草分け。大阪国際女子マラソンの元招待選手。



典子

1970年福島県生まれ。
都内百貨店で日本各地の銘産品を扱う売り場に3年間勤務。食べ物が作られる現場を知りたいと思うようになり、退職後アジア学院で3ヶ月だけ農作業ボランティアを体験。農業やNGOという働く場があることを知る。一方、大学在学中から中国語圏に関心があり、その後2年間中国に留学(遊学)。日系企業への就職も考えたが、最終的に中国で砂漠化防止活動を行うNGO「地球緑化センター」に入り、主に現地駐在員として内モンゴル・重慶・河北省等でプロジェクト運営や植林ボランティアの受け入れに携わる。在職中02年に山本昌継と結婚。06年白鷹へ。08年に第一子みのり誕生。しらたかノラの会ではいつか先輩方から味噌や梅干しなど基本の食べ物を受け継ぎたいと思う。今後の楽しみはみのりを連れて合気道の稽古、そして一緒に中国大陸を旅すること。




秀一

1946年白鷹町に農家の長男として生まれる。
青年団活動にのめり込み、近郊の農業青年と議論を交わす。家業を継ぐが、自身の健康被害の経験や百姓の作る権利、生きる権利を求めて、有機・無農薬栽培と減反反対を通す。78年に地域の同年代の後継者たちと「置賜百姓交流会」を作り、81年、自分達の農産物を自分達で生産・加工・販売する加工所を立ち上げ、94年の「減反差し止め訴訟」の原告となるなど、全国の農民や流通団体、消費者との交流を深める。長年、走り続けた無理がたたり、60歳を前に体調を崩し、加工所も退会。しかし、全国の友人達の暖かい声援を得て、徐々に元気を取り戻す。自身の現状に歯痒さを感じているが、「昔の厳しい秀一さんより、今の方がいい」という意見も。 2014年1月他界。

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